| 2014/04/14 | 日展依嘱西村卓三は、7月11日京都市上京区の自宅で脳溢血のため逝去した。享年47歳。明治41年1月29日画家西村五雲の二男として京都市に生れた。京都市立美術工芸学校を経て、京都市立絵画専門学校を卒業し、なお同校研究科に在籍し、また父五雲の画塾晨鳥社に於いて引続き業を修めた。昭和7年第13回帝展に「湖畔小景」が初入選し、次いで第15回帝展の「織工」が特選となつた。その後、新文展、日展にほとんど毎回出品し、昭和25年第6回日展以来日展依嘱となつた。その間、昭和10年京都市立美術工芸学校教員となり、同15年から24年に至るまで同校教諭として後進の指導にあたつた。京都日本画壇の中堅として将来を嘱目されたが、その急逝は惜しまれる。 |
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青龍社社人福岡青嵐は12月11日老衰のため大阪府北河内郡の自宅で死去した。享年76歳。本名義雄。明治12年熊本県に生れ、同36年東京美術学校日本画科を卒業した。昭和2年大阪美術学校教諭となり、昭和8年「匠童語」を初めて青龍社に出品、同10年には社人にあげられ、以来没する年の秋まで同展に出品をつづけた。主に歴史的人物にモチーフをとり、抑揚をもつた一種くせのある筆勢は独特のもので、いわゆる青龍社調の中にあつて異彩を放つていた。戦前に於ける明恵伝の連作、また戦後淡白な傾向を深めた「コラコラ塚夜語」「逸勢の女」などその作風をよく示すものといえよう。 |
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日本画家久保田金僊は10月9日中野区の自宅で老衰のため死去した。享年80歳。名吉太郎。明治8年9月20日京都市下京区に、日本画家久保田米僊の次男として生れた。京都府画学校に学び、四条派を専攻したが、19歳の時父米僊と共に上京して芝に移つた。この年国民新聞従軍記者となり、日清戦争に派遣され、絵による戦況を報道した。日露戦争にも同様従軍し、明治41年には画の研究のため海外旅行を志し、単身渡米した。シヤトルで日本実業団の一行中松坂屋社長伊藤次郎左ヱ門に会い、同氏の秘書として3ケ月間全米を視察して帰国した。以来松坂屋百貨店に勤務、同社宣伝部長として55歳迄在籍したが、昭和21年より直腸癌をわずらい、以来長らく病床生活を送つていたが9日逝去した。文展、劇画展に出品し、また舞台装置、時代考証等においても知られていた。 |
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南画家宅野田夫は6月26日病気療養中、港区の自宅で永眠した。享年59歳。本名清征。明治28年4月19日福岡県に生れた。大正3年本郷洋画研究所に入り、岡田三郎助に師事した。同5年中国に渡り、広東、上海、漢口、青島等に遊び、同8年呉昌碩、王一亭に南画を学んだ。同10年第3回帝展に「大滌子石涛和尚」を出品したほかは、主として個展によつて作品を発表した。昭和6年には宮内省の依嘱によつて、「菊花御紋章の形状研究」を雑誌「大日」に発表し、同10年大日本新聞社を創設した。 |
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日本画家狩野光雅は昭和28年12月17日死去した。享年55歳。本名政次郎。明治30年和歌山県に生れ、大正8年東京美術学校日本画科を卒業、松岡映丘に師事した。同10年新興大和絵会結成に際して、これに参加し、解散まで出品をつづけ、主なものに「雨後落日」(3回)、「清晨静境」(5回)、「高野草創」(7回)等があり、昭和6年より帝展に作品を発表し、第12回帝展「紀ノ国の春」、第14回「飛爆」(特選)、昭和11年鑑査展に「雨後」等がある。昭和13年国画院結成に参加し、第1回展に「冬の陽ざし」(二曲半双)を出品した。作品はその経歴にみられる通り、伝統的大和絵画法を用い、壮大なモチーフを扱つて、追力ある力強い表現をみせた。 |
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本名良作。明治30年3月5日、長野県南安曇郡に生れた。日本美術院研究所に学び、大正11年日本美術院第9回展に「石灰焼」が初入選となつた。この頃は霊水の号を用いていた。その後、大正14年第12回院展に「柿若葉」、昭和3年第15回院展に「石花菜を乾す」、昭和8年第20回展に「鯉」(この時頃から良朔の号を用う)、昭和10年第22回展に「鵜籠」を出品している。日本美術院の試作展にも出品し院友となつたが、昭和12年9月日本美術院々友11名と共に同院を脱退し新に新興美術院を結成し同人となつて活躍した。同展に「石仏」「競馬」「馬二題」「舟正月」「あぐり舟」を発表、昭和25年更に、新興美術院同人中同志5名と共に再興新興美術院として発足、毎年春秋二季の展覧会を開き、「七面鳥」「早春風景」「明神池」等を発表していたが、4月22日逝去した。享年56歳。 |
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日本画家上田万秋は昭和27年12月15日逝去した。享年83歳。本名己之太郎。明治2年8月京都に生れ、京都府立画学校を卒業して今尾景年に師事した。官展には明治40年第1回文展より出品し、同第2回に「閑庭」(3等賞)、第4回「逢坂山の径」(褒状)、第9回「光風霽月」(3等賞)等があり、あらたに帝展制となつてからは第1回に「蛙鳴く頃」を発表した。この年新制度に反抗して生れた新団体である日本自由画壇が創立されてからは、この同人となり、毎年同展に作品を発表した。主なものに第1回展「花鳥六題」、第5回「帝陵三題」、第8回「歌人の跡六題」があり、その他米国セントルイス万国博「闘鶏」、などの外国諸展出品の作品があり、穏和な画風の花鳥を得意とした。 |
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元日本南画院同人で独特の魚の絵を描くので知られていた岸浪百艸居は、9月21日東京築地の聖路加病院で癌のため逝去した。享年62歳。旧号連山、本名定司。明治22年明治の画家岸浪柳渓を父として群馬県に生れ、小学校卒業後寺院の徒弟、呉服店見習等をして転々と歩いたが、後画家を志し、小室翠雲の門に入つた。文、帝展、美術協会、南画院、如水遊心会等に作品を発表、その間禅に参じ、又支那、欧洲に遊学した。魚類を殊に好み、愛情こもつた作品を遺している。逝去する前年には巻物の大作「海魚図巻」を献上した。又随筆をよくし「魚に合ふ」「画魚談叢」等がある。終戦直後より眼疾、腎臓、癌等を患い、27年には洗礼を受けた。 |
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大正8年3月東京に生れ、昭和10年3月文化学院女学部を卒業中川紀元について絵の指導をうけた。昭和12年、中川紀元の紹介により更に岸浪百艸居に師事し15年9月及び17年9月、2回に亘つて資生堂で個展を開いた。翌18年青龍社第15回展に「植物病理学研究室」を出品、入選となつた。この年から青龍社に出品し、翌19年の第16回展に「二兎図」を出品、青龍社々子に推薦され、21年第18回展出品の「聖女」は奨励賞をうけた。翌年の第19回展には「祈」を発表し、社友に挙げられた。第20回展の「芍薬」21回展「鏡」又、25年春季展の「窓うらゝ」(受賞)と次第に作品は注目されてきたが昭和26年青龍社々友を辞し、新な仕事への研究に入つていつたが昭和27年6月30年、33歳で惜しくも長逝した。主要な作品は青龍社展に出品した「聖女」「祈」「鏡」等で、いずれも光線、色彩、の美わしさを中心に、大がらで、清純な感覚を示している。青龍社脱退後は近代風の構成をとり入れた静物画などに新しい境地を求めて模索していた。没後27年9月10日から13日まで銀座資生堂で遺作展を開いた。 |
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元日展運営会参事、同審査員梥本一洋は3月9日京都市上京区の自宅で逝去した。享年58歳。本名謹之助、明治26年京都に生れ、京都美術工芸学校、京都絵画専門学校を卒業、山元春挙の門に入つた。春挙没後は同門の川村曼舟に師事、早苗会に重きをなした。又後京都絵画専門学校教授となり、美術教育の面にもたずさわつた。作品は主として官展に出品、帝展には第1回より入選し、昭和2年第8回帝展「蝉丸」、同3年第9回帝展「餞春」は特選となつた。同じく4年無鑑査となり、第14、5回には審査員に選ばれた。尚昭和18年耕人社を結成して主宰し、最近では昭和26年第7回日展に参事として「夕和」を出したがこれが展覧会へ出品の最後となつた。 |
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元日展運営会依嘱、日本画院同人吉村忠夫は2月17日、脳溢血のため世田谷区の自宅で逝去した。享年53歳。明治31年福岡県に生れ、大正8年東京美術学校日本画科を卒業、大和絵による新民族絵画の提唱者である。松岡映丘に師事した。主として文、帝展に出品、大正11年第4回帝展の「清吟緑觴」、同15年第7回帝展の「多至波奈大女郎」、昭和2年第8回帝展の「望の月夜」は特選となり、昭和3年第9回帝展「木蘭」では無鑑査、第11回帝展「和光薫風」では審査員となり、其後も屡々審査員をつとめた。また一方正倉院御物をはじめ古典工芸の研究を以て知られ、今上陛下御成婚に際しては絵画と共に工芸品を製作献上した。師映丘の没後は国画院を指導し、大和絵発展につとめ、昭和14年には同志と共に日本画院を創設その同人となつた。晩年は舞台美術の方面にも筆をふるい、大和絵風の典雅な装置をみせた。 |
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日展運営会参事、日本画院同人矢沢弦月は、1月26日世田谷区の自宅で没した。享年65歳。明治19年長野県上諏訪に生る。本名貞則。少年の頃画家になる志を抱いて郷里を出で、同郷の士である時の大蔵大臣邸に寄寓し乍ら久保田米僊、次いで寺崎広業に師事した。間もなく師広業の教える東京美術学校に学び、明治44年卒業した。其頃の同門、同窓に蔦谷龍岬、広島晃甫等がある。学校を出てから今川橋松屋呉服店意匠部に勤務、旁ら官展に大作を出品、大正2年第7回文展に於ける「熟果」(二曲一双)が褒章となり、広業門下の作家として世間に知られる様になつた。その後大正8年第1回帝展出品の「朝陽」は特選となり又この年東京女子高等師範学校講師となる。一方川崎小虎、蔦谷龍岬等と霜失会を組織した。昭和4年在外研究員として欧米に留学、帰朝後は晩年に至るまで官展に出品をつづけ、その間東京美術学校講師、日本美術学校教授等を歴任するとともに、朝鮮美術展、台湾美術展の審査員となり斯界に重きをなした。尚聖徳記念絵画館には壁画「女子師範学校行啓」図がある。 |
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元文展審査員、日展出品依嘱広島滉人は、12月16日世田谷区の自宅で没した、享年62歳。明治22年徳島県に生る。本名新太郎、旧号晃甫。香川県立高松工芸学校を経て、東京美術学校日本画科に学び、明治45年卒業した。在学中同窓萬鉄五郎、平井為成等とアブサント会を組織して展覧会を催した。大正8年帝展に「秋の野々宮」「青衣の女」を出品して後者に特選が与へられ、翌年の「夕暮の春」も再び特選となつてその名を高めた。同13年「落葉の丘」を出品し、帝展推薦となり、同14年、審査員に挙げられた。その後も屡々帝展或は新文展の審査員となつた。この間、昭和5年明治神宮聖徳記念絵画館の壁画「外国使臣謁見の図」を完成し、この年日独展覧会委員として渡独、のち欧州各国を巡歴し、同7年帰国した。官展のほか青々会、三春会等にも出品した。その初期の人物画は浪漫的な傾向が強かつたが、次第に写実的な花鳥画に移つた。 |
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日本画家玉村方久斗は11月8日杉並区の自宅に於て逝去した。享年58歳。明治26年京郡市に生る。本名善之助。京都美術工芸学校を経て同絵画専門学校を卒業した。昭和5年方久斗社を起し、同10年同志と綜合団体新興美術家協会を組織した。のち美術新協と改称し、毎秋公募展を開催したが、これは、同18年歴程美術協会、明朗美術連盟と合同した。晩年振わなかつた。 |
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日展依嘱日本画家森守明は7月11日食道癌のため逝去した。享年59歳。明治25年6月17日京都市伏見区深草伏見稲荷神社社家守信の次男として生れた。明治43年京都市美術工芸学校を卒業、続いて京都市立絵画専門学校に学び、大正12年卒業した。在学中第4回帝展に「遊仙洞」が初入選し、以後帝展、文展に出品し続けた。その間、第8回帝展「雨後」、第11回帝展「弘法大師」が夫々特選となり、昭和5年推薦となつた。又大正15年母校、美術工芸学校の教諭、昭和15年絵画専門学校の講師となり、後進の育成につとめた。一方、西山翠嶂塾の中心的存在であり、同塾青甲社展第1回以来毎回出品し、没年5月の青甲社創立30周年記念展に「町の裏道」を出品したが間もなく病臥し、これが絶作となつた。 |
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閨秀日本画家の新人として嘱望された日本美術院々友、春泥会々員高橋米子は3月30日逝去した。享年38歳。大正2年1月2日堺市に生れ、日本美術院同人中村貞以に師事、昭和18年院展に「白扇」が初入選し以来毎回院展に出品し今日に至つたが、主として人物画に佳作多く、殊に戦後断然頭角を現し、23年「小憩」で次年度無鑑査、25年試作展「室内」で奨励賞をうけ、同年院展では秀作「白い花」によつて美術院賞、大観賞に挙げられるなど、その長足の躍進ぶりは注目に価したが、期待も空しく惜しくも夭折した。 |
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日本画家、元帝展委員水上泰生は、2月21日杉並区の自宅で逝去した。享年74歳。明治10年10月24日福岡市に生れた。本名泰生。同34年東京美術学校日本画科に入学、同39年卒業し、傍ら寺崎広業に師事した。はやく日本絵画協会、日本美術院連合共進会、美術研精会等に出品した。大正2年はじめて第7回文展に「桐花」(六曲一双)を出品、翌年第8回文展に出品した「琉球の花」(六曲一双)、第9回文展の「樺太の夏」(同上)は、いづれも3等賞を受けた。その後も、文展、帝展、新文展に屡々大作を発表した。同8年同志と如水会を組織し、また改組日本画会々員として活躍した。大正15年には帝展委員に推された。彼は写生的な花鳥画を得意とした。 |
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明治、大正、昭和三代にわたつて多くの秀れた美人画をのこした上村松園は8月27日奈良県生駒郡の別邸唳禽荘で肺臓癌のため逝去した。享年75才。松園は本名を常子、明治8年京都市の茶補上村太兵衛の二女に生れ、13才の時京都府画学校に入学、鈴木松年の指導をうけた。翌年松年が退校するに当り共に退学、正式に松年の門に入る。第3回内国勧業博に「四季美人図」を出してみとめられ、折から来朝中の英国コンノート殿下の買上げとなつた。その後松年の許可を得て、幸野楳嶺に就き傍ら漢学を市村水香、詩を長尾雨山に学んだ。楳嶺没後は社中と共に竹内栖鳳に師事、その間男子に伍しての烈しい精進ぶりはよく知られる所である。この頃のものには「清少納言」「義貞聴琴」等歴史風俗が多く、後年の洗練された技巧に対し、鈴木派の生硬な筆致がみられる。明治40年文展開設されるや連年秀作を発表、大正期の「深雪」「花がたみ」「焔」など情懐深いものから晩年昭和期の「草紙洗小町」「夕暮」など手堅い様式化へ発展、技巧は円熟し、洗練された色調と共に他の追随を許さぬ画風を示した。昭和16年芸術院会員、19年帝室技芸員、23年には文化勲章を受けた。昭和20年以降は奈良郊外唳禽荘にこもり作画三昧の日日を送つていたものである。 |
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疎開先の富山県西礪波郡に於て脳溢血のため逝去。享年85。本名純孝、慶応元年愛媛県松山に生る。明治20年前後本多錦吉郎、小山正太郎に就て洋画を学び同23年の第3回内国勧業博覧会に「慈悲者の殺生図」を出品して褒状を受けた。はじめ明治美術会に加つて、その展覧会に出品したが、同30年頃から日本画に転じ、南画家として知られた。又正岡子規の門に入り、内藤鳴雪、高浜虚子等と共に俳句を学び、その方面でも知られていた。 |
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日本美術院同人の長野草風は2月6日横浜市の大橋家別荘で脳溢血のため逝去した。年65。明治18年10月4日東京に生れ、名は守敬、維新の閣老安藤信正の孫にあたり、5才頃母方の大叔母長野家の養子となつた。14才頃から邨田丹陵につき、20才頃川合玉堂に師事、草風と名のる。紅児会に入つて研究すると同時に、文展に出して早くもみとめられ「六の華」(1回)は3等賞、「朝と夕」(7回)は褒状となつた。大正3年院展再興とともにこれに参加し、同5年9月同人に推された。以後院展を舞台として活躍、大正12年、14年には支那旅行を企て画嚢を肥している。代表作には大正15年聖徳太子奉讃展の「高秋霽月」などがあげられる。 |